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今月の切手  古賀政男
合田道人(ごうだ・みちと)
 
 2004年12月号
  今月の切手は、日本の音楽を築き上げたと言って過言ではない「日本作曲界の父」古賀政男と、古賀といえばすぐに思い出す楽器、ギターをデザインしたものが会員の皆さんのリスト送付に貼られている。今回は特別にリストの中にも「古賀メロディー盤」というコーナーも設けている。

 本年(2004年)11月18日で、古賀政男が生誕100年を迎えた。さらに今年は亡くなって17回忌の年にも当たる。それに伴い、各地で古賀政男の偉業を讃えるイヴェントも多く開催されている。

大正末期にラジオの放送が開始され、昭和初期からレコード産業がスタートする中で古賀政男がめきめき頭角を現す。明治時代からレコードそのものは、あるにはあったのだが、国内にプレス工場がなかったため、日本で録音したものをわざわざアメリカに送り、それをプレスしてレコード化し日本に送られるというシステムから多額な税金がかかり一般庶民にレコードは普及しなかった。しかし、昭和の幕開けとともに日本でのプレス工場が出来上がることにより、レコードが入手できるようになったのである。そのレコード歌手第一号がNHKの朝のテレビ小説にも描かれた「いちばん星」ことビクターレコードの佐藤千夜子(ちやこ)である。千夜子は「波浮の港」「紅屋の娘」「東京行進曲」「毬と殿さま」などの中山晋平メロディーで一世風靡、大スターに成長する。そんな頃、明治大学マンドリン倶楽部の部長だった古賀政男は、演奏会を行う際のゲストとして千夜子に出演してもらおうと考え、彼女の家を訪ねた。それが宿命だった。普通なら出演依頼を断られても仕方がないはずなのだが、千夜子は「よおござんしょ」と出演を快諾したのだ。さらに古賀が作詩作曲した「影を慕いて」を歌ってくれると言う。古賀は天にも上る気持ちだった。演奏会は大成功しさらにスター・千夜子の一声でこの歌は、昭和6年正月新譜としてレコード化されたのだ。ところが千夜子は、すぐにスターの地位を捨ててイタリアに留学してしまう。当時、歌手というものはクラシック、オペラが主であり流行歌歌手などは蔑さまれる存在だった。淡谷のり子は音楽学校を卒業後、流行歌手に転じたが、その場で卒業名簿から名前が抹消されたほどである。千夜子も周囲から“流行歌手”とよばれる屈辱を払い捨てようと、オペラを学ぶため、単身渡伊したのだ。「影を慕いて」は全くヒットしなかった。しかし翌年、古賀はコロムビアレコードと専属契約、学生歌手の新人、藤山一郎が「キャンプ小唄」でデビュー。続く「酒は涙か溜息か」、さらに千夜子でヒットしなかった「影を慕いて」を藤山に歌わせると空前の大ヒットを記録、その後普及の名作に数えられることになったのである。しかしあまりのヒットにアルバイトで歌手をしていた藤山が、大学側にばれてしまい卒業までレコーディングしないと言う約束付きで停学処分を受ける。その間、古賀は松平晃と「サーカスの唄」、赤坂小梅と「ほんとにそうなら」、昭和10年には設立したばかりのテイチクレコードに入り、楠木繁夫に「緑の地平線」、美ち奴「あゝそれなのに」、ディック・ミネの「人生の並木路」、卒業した藤山も古賀の後を追い、テイチク入りし「東京ラプソディー」を大ヒットさせる。14年、コロムビアに復帰し、霧島昇の「誰か故郷を思わざる」、さらに戦後も「湯の町エレジー」近江俊郎、「ゲイシャワルツ」神楽坂はん子。30年代には美空ひばり(「柔」など)、島倉千代子(「りんどう峠」など)、「東京五輪音頭」ではコロムビア以外の三波春夫、三橋美智也、橋幸夫らに専属の枠を越えてレコーディングさせた。40年代には森進一の「懐しの古賀メロディー」を歌うアルバムが爆発的に売れ、五木ひろしとも「浜昼顔」とその時代その時代のニュースターたちとも組み、ヒットの数を重ねた。逝去するまで「日本作曲界の父」たるゆえんを証明し続け、亡くなってからも「日本のスタンダードナンバー」=「古賀メロディー」という図式を作ったのはさすがだ。